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串田孫一 「小岩井農場と種山ケ原」 青森 秋田 岩手 山形 宮城 福島
串田孫一 「小岩井農場と種山ケ原」 昭和50年


宮澤賢治のことを時々書くのに、一度は岩手県のあの辺を知つて置く必要を感じ、去年そろそろ秋風が立ち始める時分に、小岩井農場と花巻のイギリス海岸と種山ヶ原を歩いて来た。ゆつくりした旅ではなかつたが、別にそこへ行つて賢治研究をするのでもなく、作品でなじみ深くなつている土地を訪ねるだけだつたので、軽いリュックサックをかついで、至極のんきなのがよかつた。百貨店の玩具部で子供に買つてやつた写真機を借りて行つて、小岩井の乳牛や緬羊を撮り、今はもういない岩手軽便鉄道の、鉄橋の跡を撮つたり、種山ヶ原では放牧の馬が無闇と集つて来るのでまごついた。そんな旅だつた。

イギリス海岸だけは想像と大分ちがつていた。遠くの風景は、賢治が学校の生徒をつれて来たり、独りで草の上に坐りに来ていたころと変つていないだらうが、北上川の川べりにはハナマキレンガの工場が建つて、「なみはあおざめ 支流はそそぎ たしかにここは 修羅のなぎさ」といふ具合ではなかつた。烏が二羽、雨の降り出しさうな空を飛んでいたのが、せめてもの印象だつた。

しかし小岩井でも種山ヶ原でも、始めて訪れる土地でありながら、実によく私の知つているところだつた。懐しい気持さへ湧いて、錯覚を起こすほどだった。

   *

『春と修羅第一集』に、「小岩井農場」といふひどく長い詩があり、その調子といふより歩調が、程よい速さで私を何度も何度もこの農場に案内していてくれたものだが、そこの停車場に「すばやく」降りると、「化学の古川さんによく肖(に)たひと」はいなかつたが、低い丘のこぶみたいな山でも、みんな私は地図と見くらべずにその名を知つていたし、雲に殆んどかくれた岩手山の裾に、くらかけ山が見えていたので、春のやうに、おきなぐさやきみかげさうは咲いていなくとも、あそこまで今日かけてゆつくり歩いて行きたいと思つた。なるほどこれが、弾力のある腐植土だなと、朝の農場は小鳥の学校の Rondo Capriccioso も賑かで、何といふたのしさだつたことだらう。

牛舎の中では、牛がおとなしく乳をしぼられ、朝の仕事の終つた牛たちは、柵にそつて小走りに、新しい草を食べに行くのである。それはまだここに住む人たちにとつても、朝の食事まへの仕事だつたが、暫らくして鐘が鳴ると、遠くまで草を刈りに行つた人たちが、車にうんと盛り上げて積んだ草の、そのまた上へどういふ風にして乗つたのか、四五人坐り、それぞれ思ひ思ひの方を向いて景色を眺めながらゆれて来る。馬が三頭でその車をひき、外に二頭の小馬がそばについてやつて来る。その車が赤く塗つたものであつたり、彼らは若い農夫たちで、頸にきれを巻いたりしているのが大層はいからに眺められるのだつた。こんなに広く、曇つてはいても東北風に明るい農場に、心を無闇とひかれながら、秋の蝶が舞ふ中を戻るのはつらかつた。

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水沢まで来て泊り、太平洋岸の大船渡へ行くバスで姥石峠まで来て、種山ヶ原へ来た。そこはあのラルゴの歌どほり雲が湧き、五輪峠へ、尾根を辿つて行かうとすると、雲に持つて行かれさうだつた。「雨中謝辞」の中の「種山ヶ原」といふ二百十行の長い詩も、私の好きな詩の一つであるが、その詩の中にある残丘(モナドノツクス)、「アルペン農の夏のウヰーゼのいちばん終りの露岩」がそのとほりにあり、頂上からは、雲のきれ目にイーハトーヴ県の、深い起伏が見える。

私は、賢治のやうにではなく、ヤマハウコ、ウメバチサウ、シラネセンキュウ、シオガマギク、タフバナなどの名を手帳に書いた。それから、「流れによるほど草もふまれ、楊の皮もむしられている」馬の水のみ場で、私は腹這ひになつて水を飲んだ。

   *

こんな旅をしながら、賢治の詩のことも考へたが、少くも「小岩井農場」や「種山ヶ原」のやうなものは、彼のレンズを持つて、忠実に映しとつた天然色映画だと言へさうに思ふ。「心象スケッチ」といふその意味は、簡単に考へられないものではあるが、その心象は、彼の中にあるのではなく、外の風景自身であつて、雨や霧が降つているやうな時でも、手帳の青い罫が流れるやうであつても、彼は、歩きながら、詩による優れたスケッチをして行つたにちがいない。

それは、そんなに面倒なプロセスを経て生れて来るものではなく、歩調にあはせ、時には腐植土のやうにふかふかと、時には黒紛岩(メラファイヤー)のやうにごつごつとして、歩いている限り生れて来るのだらう。