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秋元松代 「菅江真澄 常民の発見」 下北と津軽  菅江真澄  目次 
秋元松代 「菅江真澄 常民の発見」 ( 淡交社刊 シリーズ・日本の旅人9)
カラー写真は 『菅江真澄 民俗図絵 全3巻』 ( 岩崎美術社 )より

下北と津軽

一 下北の四季

ようやく本州への便船があって、真澄は在島四年の蝦夷地北海道を立ち去った。寛政四年十月初旬だった。

航路は下北半島へとった。ふりかえる海上には函館の山がちかちかと見え、恵山岬の美しい姿もみえる。それがやや遠くなる頃には、前方に下北半島の大間崎が近づき、浜辺の人家に陽の当たっている暢びやかな風景がひらけてくる。この海路は潮流も穏やかな日が多い。今のこのあたりの人人は函館を隣の町のように感じて往復している。青森市へ出るよりもずっと近い。本州のさい果ての地と言われているが、むしろ北海道へむかって開かれた地点である。

真澄の上陸したのは奥戸(おこつべ)という港で、当時はかなり栄えた船着き場だったようだ。その磯辺の家に一夜をすごした彼は次の日からこの付近の牧を尋ね歩いている。道奥の牧と、そこで成長する馬について彼は故郷を出る以前から関心があって、折あるごとに人に訊ねたり心覚えを書きとめたりしている。歌枕に多く詠まれてもいるが、奥州産の駿馬と中世以降の文化との関連に興味があったようだ。蝦夷地に次いで下北へ上陸したのは、その長く持ち越した課題を追うためだとおもわれる。

奥戸あたりから佐井村を経て仏が浦近くまでの海岸の村々は、恐山山地と海とのあいだに挾まれた細長い土地で、野飼いの牧場が古くからあった。秋の頃から、放牧の馬は枯れ残った木の葉や葛、磯の海草類、雪の下に埋もれた草などを食用にして越年する。こうして野飼いにした馬は非常に強く育ったという。そうした馬の群れが丘陵の斜面や峰をふみならして餌をあさるさまは、深く真澄に印象された。

佐井は下北の七湊の一つで、この沿岸で最も繁栄した港だった。下北の豊富な桧材の積出港で、近畿や北陸の豪商たちの進出したことでは北海道の松前や江差と同じだった。現在でも町を歩くと、昔の面影を残した本陣跡や家並みが残っていて足をとめさせる。真澄はもう秋風が寒くなり冬の近つくのを知らせているので、太平洋岸へ出るために中山越えを通り、易国間(いこくま)を経て大畑へむかった。

この道は左手に海を見ながら、桧の深い森の間をまっすぐに南へ行く街道である。峠になった処を登ると青い海がひらけて、尻屋崎と北海道の山々が遠望される。桧の森の上には恐山が雲にみえがくれして、初冬の頃にもなればほとんど人の通行竜ない。梢のあいだから空を仰ぐと陽は照っているのに、山から吹きおろす風には雪が舞いこんでいて桧の枝を鳴らして行く。初冬の旅の静かな優しさである。

真澄は大畑から正津川をさかのぼって恐山に登ろうとして、しばらく大畑に滞在した。松前で知人になった者からの紹介状などがあったらしい。しかし山道は雪で危険だと引きとめられて、今の大畑線にそって田名部へ出た。この町は代官所などのおかれた町で、この地域での中心的な処だった。ここへ落ち着くのと同時に雪が日増しに降りをつよめて行った。

彼が初めて恐山へ登ったのはその冬のさ中だった。土地の少年を道案内にして里の西から雪をかきわけて山路を登ったとあるから、おそらく今の東通村役場の脇から登る山参道であろう。私も二度登っているが二度とも雪の降る時だった。

あまたの御堂残なうとざし、あるは蘆のすだれもてめぐりをかこひて、みほとけもみな冬籠し給ふなれば、いともの淋しう。しかはあれど、湯ぶねのわきかへりながるる声、石のあぶらのもえ出る音は、山谷にひびきわたりぬ(牧の冬かれ)

硫黄の噴出も熱泉の涌出も今よりは多量だったと思われるが、山谷にひびき渡ったのは冬の霊場特有の疾風のような風の音でもあったろう。宇曽利湖を囲む山々から吹きおろす風は凄まじいばかりである。灰色に暗い湖面に波が立ち騒いで、汀に立っと背筋の凍るような人間くさい迷路にひきこまれて行くような感じがする。湖の岸に続く熔岩の何々地獄と名付けた塚や小台地も、素朴で稚拙な発想であるだけに、人影ひとつない冬空の下でみると、いっそう不気味な、なまなましさが身に迫るようだった。おそらく参詣の群衆や、仏おろしのイタコの集まる夏の祭りは、解放を求める野趣とカタルシスの祭りであって、こんな荒涼とした気味わるさは押しのけられてしまうのだろう。しかしこんな感じを持つのは罪悪感からまぬがれない現代の人間であるためかも知れない。真澄は寺の内外の仏たちや風景を、常のごとく丹念に書きしるして、また雪をかきわけて下山した。

やがて十二月が近づき、雪は日ごとに積もって、寒念仏の修行の太鼓の音が吹雪とともに聞こえる頃になった。ある日、松前から船がついて、その船頭が真澄あての荷物を届けてきた。松前のある知人が、真澄に渡してくれと託したものだった。ねんごろに消息を問う手紙を添えて、厚く綿を入れた着物が贈られてきた。同じ包みの中に花子という十一歳ぐらいの少女からの手紙もあった。
真澄の最年少の歌の門人らしい。

雪ふれば次第に寒くなりにけり どこへ行ってもおひえなさんな

それへの返し歌

うなゐ子があはれかくなる水くきの ふかき情に袖は濡れけり

日記には、「このきぬを着て、夜ふけゆくままにおもひつづけたり」としてある。贈り主は女性であろう。寒さを思いやって「綿あつあつと入れたる」着物を縫いあげている。あるいは花子の姉か母かも知れない。

真澄は松前在島の最後の期間に、島との名残りを惜しんで、人々の誘うままに風景を尋ね吟行の野遊びをしている。日記には、島を去ろうという気持になれないと二度も書いている。歴史的に新しく開拓された土地である松前には、本州にはみられない自由さと明るい雰囲気があったと思われる。封建制社会ではあっても、古い習慣にとらわれることがすくなかったのではないかと思う。そうした風土は真澄にとって、立ち去りがたいものだったろう。夜の更けるのも忘れて松前を追想した彼の胸中には、さまざまな思いが去来したにちがいない。

    

下北に春がきた頃、彼は尻屋崎、尻労(しつかり)方面を歩いたようである。早春の尻屋の放牧と海の難所を尋ねて行ったらしいが、その三か月間の日記は発見されていない。寛政五年は『於久能宇良々々(おくのうらうら)』から始まっている。おそらく尻屋崎から北岸の浜を通って西海岸へ出たらしい。佐井村の南、仏が浦から牛滝の嶮路を越えて脇野沢へ出ている。

佐井の浜から小舟に乗り、見上げるような断崖に桜が咲き満ちて「むら消ゆる雪に夕日の照れるがごと」き風景を賞しながら仏が浦へ漕ぎくだった。この平館海峡の荒海に面した下北の断崖の連続は、その豪快さに目をうばわれるような展望である。仏が浦、極楽浜というような素朴な名が生まれたのも、現世を超える感動を与えられるためにちがいない。焼山崎、大崎のすばらしい断崖の下を、南端の九艘泊(くそどまり)までは海路によるほかは嶮しい山中で、木樵か杣夫しか知らない道があるだけだった。

この地域は南部領内の最も辺境の土地で、流刑地だったほどの処だった。真澄は大荒川に沿ってこの嶮路を山越えしている。桧の密林をくぐり谷を渡り、ようやく源藤城(げんどしろ)という小さな山村へ出ることができた。山子という木樵を業とする家が七、八軒あり、僅かな山畑に粟、蕎麦などを作っているが、それすら鹿や猿に荒らされて人の飢える嘆きを真澄は足をとめて聞いている。このあたりから南へくだって脇野沢へ出ると目の前は陸奥湾である。海際まで山の迫ったこの一帯には耕作地はきわめて乏しい。天明の飢謹の時に全村蝦夷地へ逃散して村の名前だけが残った廃村のあともある。脇野沢には、江戸時代までアイヌが和人にまじって住んでいた。
雪中の鱈漁

陸奥湾は西海岸をみてきた目には波のおだやかな内海で、ここを東へむかうと漁村の集落が点々とつづく。昔の松並木もまだ残っていて、外見はなごやかな眺めになるが、沿海漁業の衰微は明らかな刻印を残している。昭和二十三年頃までは鱈(たら)の豊漁で活気のあふれた処だった。その鱈の群れが突然消滅でもしたように姿を見せなくなったころに、私はこの沿岸を通ったことがある。村にはまだ幻の魚がくるかも知れないと夢見る人たちがいた。今ではそれすら誰の記憶にも残っていないだろうと思う。

真澄は川内川を舟でさかのぼった。その川舟の船頭が語ったこととは、自分は近い頃まで江戸へむけて航行する大船の梶とりだったが、暴風雨に遭って漂流し、辛くも命だけは助かって唐の国に漂着し、ようやく帰国することはできたものの、船を流した罪の期限の終らないために、大きい船に乗り組んで働くことを許されない。川舟の船頭では生計も覚束なく、年老いた母ひとりを養いかねているという哀れふかい話だった。この川内も藩政時代には川内川の河口港であり、廻船業で栄えた処だった。

この川上の銀杏木(ぎんなんぼく)という村まで真澄が行っているので、今は川舟がないので岸にそって行った。平坦地を底ふかくゆっくりと流れる古い川には何か不気味な感じがある。ずっと上流に湯の川という温泉があり、その頃から湯治客が遠い道をいとわずに行った処なので、温泉好きの彼も行くつもりだったのかも知れない。銀杏木という名前のとおり村には見事な銀杏の木が何株となくあった。樹齢千年以上と思われる大木もある。流れで洗い物をしていた老女に金七五三(かなしめ)明神の在るところを教えてもらって行った。川べりの古い神社で、ここにも大きな銀杏が並んでいた。

さらに上流の安部城という集落まで行ってみた。緑の濃い山のあいだに黒々としたボタ山があった。大正時代の末頃に銅の鉱床が発見された処だという。この小集落も一時は異常な活況をみせたが、今は廃山になって、当時流出した重金属廃液の被害で、僅かな山間の農地が荒廃したまま残されていた。ふと空をみると、大きな虹が二重にかかっていた。恐山の方向に雨雲が動いている。

田名部へ帰った真澄はほとんど間をおかずに恐山へ二度登っている。遠近の村々から病者が祈願と湯治に集まる季節になった。

湯桁(ゆげた)五ところにあるに、病人(やまうど)、それぞれに居集る。湯あみするに、女あまた紺の湯まきしてならび、かしらに手拭をかけ、大なる、片手桶といふものして湯をひたにすくひ、これをかぶるとて、ももたび、ちたび、かしらにうちかけてければ、いと長き髪の、かた過てぬれみだれ、あるは、くしけづるに、みな、まなごふたぎたるさま、ところもところ、十戒の図(かた)など見たらんやうに、さながらぢごくのふるまひをせり(於久能宇良々々)

やがて地蔵会がくる。国々から修業者が鉦や鈴を鳴らしながら山へ集まり、村里からは愛する血縁の者を失った人々が、亡き魂に会おうとして登ってくる。

あなはかな、わが花と見し孫子よ、かくこそなりゆきしか。わがはらから、つまよ子と、あまたの亡魂(なきたま)呼びになき叫ぶ声、念仏の声、山にこたへ、こだまにひびきぬ(同上)

宇曽利湖に夜がくると、子を失った母たちが汀を往きつ戻りつしながら、わが子が奏の河原で飢えぬように米や菓子を投げて、子の名を呼ぶ。農耕地が乏しく寒冷な地方で、飢餓と紙一重に暮らす農漁民は、生まれたばかりの嬰児を間引くといって土中に埋める。これを、還すという。名もっけずに還した子を呼ぶ女も多かったという。

    

"ねぶたも流れよ、豆の葉もとどまれ、苧がらおがら"と、子供たちが声を張りあげて村中を練り歩く。樟のさきに灯籠をともし、太鼓や笛で唾しながら行く。労働のさまたげになる眠気や怠け心を追い払うことから祭りになり、豆の葉もとどまれとは、まめで働くということであろう。七日盆にも当たるので、家々の軒にも提灯がともされている。

真澄は大畑へ来ていた。近く田名部を去るつもりで、大畑の知人たちに別れの挨拶がてら来ていたのだった。すると田名部から急用があるという伝言がとどいたので、彼は田名部へ引き返すために浜路を馬で急いだ。この急用とは何か分らないが、病人でもあったのかも知れない。道の途中で乗馬した武士が供を引きつれてくるのに出会った。田名部の代官所の役人の、菊池成章と清茂だった。菊池家は田名部の名門で、成章は歌道や文筆に長じた人物だったので、真澄とは親しい交友関係を結んでいた。成章たちは、先年根室へきたエカテリナ号のアダム・ラクスマン使節の事で、松前に行っていた。その役目が終って田名部へ帰った早々、また佐井の港へ出張するように命令をうけ、これから行くところだった。これもおそらく北辺の海防整備に関する代官所の用務のためらしい。
まゆだま

エカテリナ号はこの年の六月に、南部領東通村の沖あいにも来ていた。本船から「牛の皮で作った小舟」で乗組員が浜へあがった。村の子供たちは、その丈の高い変わった姿をした赤蝦夷に恐怖して泣き叫び、浦の重立った者たちや役人が駆けつけるという騒ぎがあった。

田名部へ戻った真澄は、夏の終りから秋へかけて、大畑、易国間、奥戸などの知人を訪ね歩いたり、立ち去るつもりだった田名部へまた帰ったりしている。何か思うにまかせないことでもあったような感じがある。

その頃、浜通りの村々では道路を掃き清めたり家の窓すだれを新しくしたり菅こもを敷き替えたりしていた。それは江戸幕府から派遣されて、松前でラクスマン使節と会見した目付石川忠房と西丸目付村上義礼が、会見後の帰途、津軽、南部の海辺を視察するために通るからだった。北辺の海防については早くから有識者たちが幕府や世論の自覚をうながしていた。幕府も老中松平定信に海防警備を厳重にするようにと命令していた。

この石川・村上両使者を迎える易国間村のさまを、そこに居合わせた真澄は事こまかく見聞している。使者の一行が午後四時頃には到着して宿をとるというので、村人は忙しく走りまわり、酒の肴を手に入る限り用意した。こんな貴い身分の人々を迎えて宿をするなどという晴れがましいことは、今後二度とないであろうと、村人たちは喜び合っていた、と書いてある。使者の一行竜簡素な行列だったので、純朴な村人を感激させたようだった。その一行が翌朝ここを出立するのを見送った人々は、去りやらぬ感激と無事に役目を果たした喜びの挨拶をかわし合った。そうした人々の間を、顔をそむけるようにおどおどと通り過ぎて行く若い女がいた。脛にもとどかない短い襤褸8ぼろ)をまとい、頭も汚れた手拭いで包んでいた。この二十歳ぐらいの女は、どういう事情でか出羽の国の男に連れられてきた他国者で、男と働いているうちに、大間の牧場で別の男と密通したとか言われて、出羽の男が残酷な報復をし、女の髪を切り着物も剥ぎとってしまったのだ。晴れがましく喜び合う村人を避けるように、何処ともなく去って行く女に真澄の視線は注がれている。

やがて秋が深まると、村々から二百人あまりの人々が出て野山を走り、放牧の馬を狩り立てて柵の中へ追い込む。〈さいとり〉という大綱を馬の首にかけて、盛岡城下へ曳いて行くのである。野飼いで逞しく育った荒馬や二歳駒の高い噺きや人々の叫び声が晩秋の空にひびく。大間や奥戸の牧からも馬を曳いた列が浜路を伝ってくる。それも終る頃には鶴の渡る声がきこえて、一日ごとに秋風がきびしさを加えた。真澄は知人の家を転々と泊まりながら、望郷の思いに寝ざめがちだった。

    

浜風が荒く吹きすさんで、磯山の樹々の葉を散らす時雨が降りはじめたとみるまに、粉雪の舞うころになった。真澄は大畑の人々と別れの歌会をしてまた田名部に戻った。そのあいだに十月がすぎた。同じ処を何回か往来して、十一月の下旬ちかく、いよいよここを去ることになって別れの歌会があった。菊池成章ら十人近い人々が名残りを惜しんで集まっている。惜別の漢詩、和歌の唱和贈答がくり返された。真澄にとっては下北へ来てから満一年がすぎ、二度目の冬を迎えようとする時だった。彼は野辺地へ行くことになっていた。それには陸奥湾ぞいに横浜村へ出て南へくだるのが順路である。しかし出発すると急に方向を変えた。かねてから関心の深かった尾駁(おぶち)の牧を見たくなったため、と日記には書いてある。

尾駁の牧は歌枕や名馬の伝説で名のきこえた古い牧である。下北半島の太平洋岸を南へくだって、上北郡の小川原湖の方向へ行ったところにある。下北のこの地域は、細長い半島を縦に二分するように下北丘陵が連なっているので、西側の陸奥湾べりと東側の太平洋岸とは、この丘陵で隔絶されている。横の交通路はほとんどなく、ことに積雪期では通行不可能である。真澄は田名部から今の斗南が丘の南を通って、田屋という集落をすぎ、青平川ぞいに山道をすすみ、横流峠を越えた。このあたりまでくると雪はひどく降りこめてきた。峠のさきに砂子又という寒村があり、ここの顔見知りの老人の家に宿を求めた。真澄は春の終り頃にこのあたりまでは来ていたし、上北郡まで行っていたらしい。

宿の人々は男は菅むしろを織り、女は布を織って仕事に励んでいた。日が暮れると男は縄ないに、女たちは麻をつむいで手をやすめるということがない。その中の老女がふと真澄に話しかけて、もし両親がいるなら早く戻ってあげるべきだ、親はどんな気持で待っているだろうか、と素朴な言葉で旅人を諌めたことが日記に書いてある。彼は放浪に身をまかせてきたことを悔い、老女の言葉に恥じて返す言葉がなかったと書いている。生産者として絶えざる勤労に生きる人々と対比するとき、彼の在り方が特殊なものであることは彼自身が自覚していたと思う。自己の学識や技能に自信をもって旅に出たらしい彼も、一粒の米も耕しては得ず、一寸の布もみずから織らず、生産者の勤労に支えられて成り立つものが旅人の生活であることを知ったとおもう。
大間の浦

旅は、給(たぶ)、から出た言葉だという。自然の与える恩恵と人間の慈悲心なくして旅はあり得ない。彼が自己の特殊な境涯を当然のもののように合理化せず、その志向に倨傲にならず、貧農の年老いた女の言葉にも謙虚に耳を傾けたのは、彼が旅というものの本質を知った旅人だったからであろう。彼は故郷を出てから十年目であり、すでに四十歳を迎えていた。

雪は翌日もはげしく降りこめた。宿の老人に出発を延ばすように言われて、やや雪の小やみになるのを待って出立した。下北丘陵の北の端を太平洋岸へ越える山道だった。左京沼などの沼沢の多い小田野沢へ出ると、眼前に果てしのない荒海がひらける。この浜の冬は言いようなく寂しい。荒波の砕ける磯に七尺ばかりの柱に横木をいれて十文字にしたのが立っているのは、吹雪に方向を見失う人のために立てた標識だった。たちまち疾風と雷が降ってきて視界も暗くなる吹雪に出会った。ようやく一軒の苫屋(とまや)にたどりついて宿をたのむことができた。

この時の彼の旅は冒険以上の危険を伴っている感じがある。十一月も末に迫った豪雪期に人里も稀な地帯へ方向を変えたことからして強行な旅だった。北国の厳冬期にはもう充分な経験のある彼が、この時期にあえて尾駁を見ようとしたことは何だったのだろう。牧を見るなら雪解けを待つ方がいいことを彼が知らない筈はない。意識して困難なものに挑もうとする姿勢がある。おそらく下北での一年は、彼の裡に欝屈するものを累積させていたのだろう。松前での四年間に比べて、本州の下北は狭い土地だったと思われる。彼は自己抑制のつよい性格であるだけに、その極点にくると、抵抗の強い自然に立ちむかう以外になかったのではないか。だからこの時の紀行『をふちのまき』は、彼の多くの紀行の中でも、美しく緊張度の高いものになっている。


出立した日から八日間のあいだ「雪あられ、まぜふり来るをさそふ磯山おろし、はげしうふきむかふを、しのぎしのぎゆけば、馬も人も、しろたえに雪にさえ通り、吹もをやまぬ風に目いささかも見ることあたはず、野原の雪、磯辺のあら浪のなかを」行き、命も失いそうな思いをして、吹越鳥帽子岳の麓の、尾駁の牧を遠望する処まで行った。

しかしそこまでが限度で、深い積雪と吹雪にはばまれて牧の近くまでは行けない。西へ横断して野辺地港へ出る道も雪にふさがれていた。あとへ引き返して田名部へ帰る以外にない。往路よりもいっそう風雪の耐えがたい九日間を要して、十二月中旬に田名部の仮寓へ着いた。三日ほどは疲労のために臥床していた。こうした冒険以上の冒険的行動は、これ以後の彼の旅に、ある時期をおいて姿をみせている。

ようやく起き出した彼を訪ねてきた知人が言うには、こんな季節に知らぬ旅路に出なくてもいいではないか、雪の消える春までこの土地にいられるよう、もっと静かで落ち着ける家を探しておいたから安心して移るようにとすすめた。「こは何ごとも旅のならはしとて、まかせることもまかせざるに、かく情もふかきものかと、なみだ落ちて」ともかくも好意ある取り計らいを感謝して新しい仮寓へ移った。そこは商家の離れ座敷で、明るい窓と暖かい埋火のある部屋だった。いかにも安堵の思いがしたらしい様子からみても、それまで彼の受けていた処遇には心にそまないものがあったらしい。この地方は前年度から農作物の収穫がよくなかった。雑穀類を主食にしていたような実情だったから、旅人の滞在も軽い負担ではなかったろうし、そうしたことに人間関係が円滑を欠いたこともあったと思われる。しかし旅人である彼は、他者が無理なく与えるもの以上を求めないという旅の節度を守って耐えるしかない。いかに旅なれた彼でも胸中の屈折は人に語れないものがあったにちがいない。

新しい仮寓に移った夜、松前から手紙と荷が届いた。彼の門人だった菅子、睦子という少女たちの「をさなう手ならひに書いたる歌どもあり。またケ美がもとよりとて、したうつに、ふみかいそへて」あった。したうつは足袋であろうか。戸外の雪道を人々が往来する様子も忙しげになった。
歳末がもう近づいていた。

ものおもへば夢もむすばじ草枕 旅よりたびに馴れし身ながら

    

寛政六年(一七九四)の元旦になった。家々の門にさした福取樺(さいとりかば)という松明にあかあかと火がともされ、午前二時ごろから麻の上下を着て灯火を持った人々があるだけの神社へ初詣でに出かける。近郊の村から獅子舞が来る頃になると、子供たちの〈かせぎどり〉の群れが声を張りあげて家々を祝って歩く。正月の行事風習の記録というものは何度読んでも面白味のあるものだ。地域による違いと共通点などは趣がつきない。

二月になると真澄は友人たちと誘い合わせて恐山の桧材の搬出を見に山へ登った。この地方の桧は、ひのきあすなろという特に材質の良いもので南部藩の宝庫だった。山からおろされた木材は廻船によって主に江戸へ送られた。

深い雪をわけて登り、夕方ちかくようやく菩提寺について一泊した。夜明けを待って結氷した宇曽利湖を徒歩で渡り、山子という木樵に案内されて、けどという仮小屋へ着いた。夏から秋にかけて伐採した木を、峰から谷へ、雪の急斜面を櫨で曳き落とすのである。四乳(よつち)、鶻(はやぶさ)、という名の橇一台に六十本あまりの木を積む。その重さは米七十俵ほどの重量だという。凍った雪の傾斜面を山子ひとりの力で飛ぶような速度で曳き落とす。はやぶさの名の通りの危険な重労働である。山子たちは、一曳きしては食べ、二曳きしては食べなければ体が続かない。大鍋のそばに、桧の板に壁で屯塗ったように味噌を厚く塗って、火であぶった物がおかずである。山子は一日に米二升は食べ、一日の労働が終ると〈けど〉に寝て何日間も冬山で暮らす。真澄も〈けど〉へ泊めてもらった。炊事もすべて男たちがするが、その道具は木樵や杣夫のものとは思えないほど清潔で美しく簡素なことに真澄はおどろいている。それらを写生した図絵が残っている。

彼はこの年に上北郡野辺地付近や八戸、三戸郡の十和田付近などを歩いたらしいが、それらの紀行は発見されていない。そしてこの年もやはり田名部を出立したいと言いながら、雪の降る季節になってしまった。それまで居た仮寓からまた別の仮寓へ移った。今年はことに雪が深く、人々の引きとめるのにまかせて、と前と同じような文章で滞在の理由をあげ、三度目の越年をここで重ねている。新しい方向への打開のいとぐちが掴めなかったようだ。旅の中で迎えた中年期の疲れもあるかも知れない。慎重さから踏みとどまったのであろう。真澄はしきりに故郷や父母の夢をみることが多くなった。
平内の雪景色

二 津軽野

しばしは伏しつと思ふ夢に、ひる見し銀杏の木葉ほろほろと風に敷くは、こがねのふるやうにこそおもほゆれ。ここは何処にて、名は何とかいふらんと、誰に問ふとはあらでいへば、いらへする人のありたるやうにて、「みちのくのこがねの山やこれならん」といふ句あり。あなおもしろのといふ声の、きと耳に残りたるやうにて、ふとおどろけば、鶏のかけろとなきて、いとど寒さは身にたえやらず(津可呂の奥ー仮題)

真澄は夢におどろいて目を醒ました。八甲田山の西北にあたる入内(にゅうない)川という谷川に近く、田山という寒村のあばら家の夜明け方だった。彼は青森から弘前へ行く途中だった。

この日、青森の港辺の仮寓を出て、入内村へ行こうとして日が暮れ、見知らぬ山村の壁も落ちた茅屋に仮寝したのだった。夢に聞いた言葉は、みちのくのこがねの山というのは八甲田山であろう、ということだった。真澄は故郷を出る前から「鳥がなく東の国の陸奥の小田なる山にこがねありとは」(大伴家持)、「すめろぎの御代栄えんと東なるみちのく山にくがね花咲く」(同上)と詠まれた黄金の産地とは何処か、その正確な跡づけをしてみたいという意図があった。そして「みちのくの小田なる山」とは八甲田山ではないかという推定の根拠も持っていた。

暁の冬空に浮かぶ雪の八甲田連峰を仰ぎみて、雪の消えるのを待って必ず登ってみよう、確証が得られるのではないか、と心に誓ったと彼は書いている。この文章の中には夢のお告げに涙を流して喜んだという叙述などがあって、そういう誇張には私は異和感を覚えるけれども、それを省いて言えば、この寒村の朝の、八甲田山と真澄の出会いは美しく印象的なものだ。何度も見ていた筈の山に、ある瞬間を契機にして新しい視点を掴み、直観がひらめくということは、夢のお告げを援用しなくても同感できる。山の姿に神秘を感じ、ひらめいた直観に感動した真澄だけで充分である。

この津軽野の日記は草稿のままで清書されなかった。草稿の原本も紛失した。日記のない部分があって判然とは辿れないが、この後、彼はこの山の周辺は何度か歩き中腹まで登った段階で、八甲田こがね山の自説に訂正や否定を加えたりしている。しかし疑問を追求し自分の目で確かめ、新しい裏付けを求めて完全を期して行くという彼の実証主義精神と方法が彼の真の面目のあるところだった。八甲田こがね山説の当否は別である。それよりもこがね山に執着したことが、後に彼の上に意外な結果を招く原因の一つになった。

    

この時の弘前行は寛政七年(一七九五)の十月も末に近い頃だった。この年の春には夏泊半島の椿を見に行き、その後、青森へ住いが移ったらしい。三年間いた田名部からいつ青森へ移ったかは分らない。弘前の旧知の人々から訪ねてくるようにと言ってきたので、十一年ぶりの再会を思いたったのだ。弘前は天明五年の旅の途中で立ち寄った処だった。

津軽野の風雪に難儀しながら黒石あたりまできたとき、弘前藩では藩士の帰農土着という方針をすすめており、彼の旧知の武士も城下を引き払って農村へ移ったということをきいた。これは天明の飢謹によって領内の農村が荒廃をきわめたことから対策として出された方針だったが、江戸時代もこの時期になると、津軽と限らず、武士階級を貢納米で扶養する制度の経済的な矛盾と破綻は大きくなっていた。藩士の中には率先して武士の帰農土着を唱える者もいて実行にふみ切っていた。

真澄は十一年前に親しく語り合った間山祐真が、竹が鼻という農村へ移って開墾耕作に従っているという話をきいた。彼と祐真は短い交際だったが気心が合った。その妻の律子とも歌の贈答をして別れていた。彼は竹が鼻を尋ねて行き、雪に埋もれたその家を探し当てたが、折あしく祐真は江戸出府中だった。律子と母は思いがけない再会を喜んで泊まって行くようにすすめたが、真澄は辞退して引き返した。帰農した武士の生活は楽なものではなかったようだ。あるじの不在に遠慮もしたのであろう。

真澄は弘前城下で、新築されたばかりの藩校、稽古館を見た。藩主は津軽寧親で、学問奨励の意向から学校開設がすすめられた。この時代には他の藩でも学問向上に力を入れて藩校をひらく例がすくなくなかった。真澄は稽古館の規模や、立ち働く大工たちの活気のあるさまに感心している。藩士か稽古館に関係のある者が案内して見せたらしい。しかし後になってこの稽古館に真澄が関連を持つようになるとは、この時はまだ誰も予想していなかった。

この年から翌年にかけて、彼は青森を中心にしたその周辺の土地に住んで、付近の山水古蹟をめぐり歩いている。そういう山歩き野歩きは薬草の採集も兼ねていた。弘前方面との交友関係がひらけたことから、彼の行動範囲は次第に青森から弘前の方へ移って行くが、医師との接近が多いことからみても、彼の医療技術と薬草に関する知識は、十余年の旅の経験と知識欲の賜物で、着実に深められていたとみることができる。薬草と限らず、彼の植物に示した関心は紀行の中の随処に記録されている。この当時の植物学は分類学的には未分化時代だったが、彼は本草学の素養を次第に深めて、即物的な観察を系統的に整理している。地域による差異と変化、その種の共通点に好奇心をもって、植物分類学の方向に進んでいる。

真澄の白タンポポという草花が今も毎年、花をつけているときいて、津軽の館之越という処の北畠家をお訪ねした。弘前から北へ行く道の左右は、赤い実がびっしりと実った林檎畑だった。晩秋の津軽野の上には岩木山が優美な裾をひいている。それに対するように東の方には半ばまで雪に覆われた八甲田山がみえる。この沿道の村々は真澄が何度となく往復した処である。彼の紀行に何度か出てくる医師の山崎顕貞の家系はもと浪岡城主だった北畠氏の子孫で、津軽家を憚って藩政時代には山崎姓を名乗っていた。明治以後もとの北畠姓に復帰しており、未亡人の立さんは快く庭のタンポポを見せて下さった。花の咲く季節ではないが南側の庭にはまだほほけた花をつけた茎の高いタンポポの群生があった。花は白一色だそうで茎の高さは三十センチからそれ以上の勢いの強いもので、庭一面に咲くそうである。シロバナタンポポは関西には多いが関東から北では黄色か淡黄色のものである。真澄は白色種の自生を夏泊半島へ行ったときに発見して採集し、山崎家の庭に根づかせたらしい。タンポポは漢方の処方では解熱、健胃剤などに使われる。北畠家の母屋は真澄の訪ねた当時のもので、一部分改造されているが、旧家の静かなたたずまいは言い知れぬ床しさを感じさせた。

夏越とて大杉の多く群立るかたよりのぞめば、山々そびへて、遠う比加利万婦(ひかりまぶ)といふ山なん見ゆ。むかしそこにて黄金多く掘りたりしよし。うべならん、金臼てふものの、ところどころの川瀬、あるは山みちにまろばし捨たり(栖家能山、すみかのやま)

南津軽郡の阿遮羅(あじゃら)山の麓の大鰐温泉を尋ね、山の西麓の谷ふかく入って山へ登った時の文章である。いつ頃、誰が掘ったとも分らない金鉱の跡は秋田、青森には各処にみられる。この山へ登ってみると、西南の山つづきは秋田北部の重畳と厚い山脈であり、北の方には弘前平野が明るくひらけている。雪の降る直前の季節では登ってくる人もない。陽の当たる枯れ草に風の鳴る音をききながら、真澄の足跡がまだ遠く長くつづくことを思った。津軽での真澄はこのあとに大きく変化のくる時期がある。しかしその前に彼は津軽野を北へむかって、五所川原、金木を通り、西海岸の北端の十三の潟湖を見に行った。

三 十三湖・深浦・暗門の滝

津軽鉄道の無人駅から、荷を背負ったあっぱ(主婦)たちと一緒に電車へ乗ると、旅の安らぎに神経がほぐれて、地図一枚にみちびかれて行く孤独がたのしい。沿線は旧藩時代に治水と開墾が行なわれた農作地帯で、緑の木に囲まれた溜池という沼がいくつとなくあって、水郷を行くような趣の深い風景がみられる。終点からは小泊道の起伏をたどるだけで湖までは寂しい一本道である。広広とした放牧場があって、牛の群れが小さく散っているのがみえる。小高い道を登りきると木立の間に十三湖の水の色がみえ、僅かに波立つ鈍く暗い湖に、思わず足をとめずにはいられない。岩木川のほか、ここへ注ぐ川の流砂で港口をふさがれて潟湖になった水の色は何かを訴えつづけているような哀切な色である。そのさきに茫々と日本海がひろがって目路を遮るものひとつない。

真澄は夏の盛りにきて「湖は藍うち流したるやうな」眺めに感嘆している。彼の来たころも十三はすでに廃港になっており、三十戸ほどの漁家の集落になっていた。砂浜は炭火でも踏むように熱いと書いている。権現崎をめぐり、算用師峠へ岐れる処まで行って引き返している。この峠を越えれば三厩湾へ出られるが、ここは今でも青森県内で最も不便な山道といわれていて通行停止になることが多い。しかしここの津軽山地を越える道は見事な桧の美林の中で、私は一度だけ越えたことがある。

彼は舟で竜飛崎をまわりたかったが舟便がなかった。十三湖付近を南へくだりながら古蹟や伝説を書きとめているが、暑さに弱ったらしい。七里長浜の砂丘の暑さを避けて、屏風山という防砂林の東側をくだって、亀が岡発掘土器で後に名高くなった屏風山の南から鰺が沢の知人の家へついて十三湖の旅を終えた。

    

同じ七月の中旬には西海岸のさらに南の深浦へきて、しばらく足をとめることになった。この港は松前航路や上方航路の船にとっては重要な交易港であり、津軽藩内四港の一つとして奉行所が置かれていた。港には廻船問屋などの豪商が軒をつらねていたという。ここは十二年前に真澄が初めて津軽へ入った時にも来た処だった。

廻船問屋小浜屋の主人で町年寄なども勤めていた竹越里圭は、後々まで真澄に好意を示した人物で俳譜のたしなみなどのある教養人だったらしい。真澄は深浦滞在中、この竹越家に寄寓して、この付近を探勝している。

この秋よりぞなりむつびたる深浦のはまやかたをたちつるほど、浦人らせちに余波(なごり)おしみて、玉筐ふたたび来ませ、そらごとなせそ。その来らんしるしに、調度ひとくさ、ふたくさは、ここにとりものこしてなど、なさけなさけしう、ひたぶるにいへれば、かれふの草のかりそめの旅寝ながら、かど出、ものうけきおもひそせりける(雪の母呂太奇)

十月の下旬に、中津軽郡西目屋村の奥、暗門の滝をぜひとも見たくなった真澄が、深浦の竹越家を出立するときの様である。彼は旅日記の草稿や写生帳、その下絵というような物を、身辺から離さず旅のあいだ持ち歩いたわけだが、いかに薄く軽い和紙の綴りでもそう小さな量だったとは思われない。彼は近い旅のときは、それを確かな人の許に預けておいて出発し、またそこへ戻ってから次の目標地へ移るという方法をとったようだ。この出立の時は草稿類はむろん預けただろう。暗門の滝は白神山地の奥の嶮しい山中にあって、今でも容易には行けない処である。ことに旧暦十月の末という冬季に、深雪の中の滝を見るために行ったのは、彼の旅の中でも冒険行の一つにあげられるものである。彼は鰺が沢まで出てから中村川をさかのぼって、岩木山麓へ入って行った。

    *

真澄は岩木山の西の山麓をまわって南の峡谷へ入った。ここから岩木川の渓谷をさかのばって白神山地へすすんだ。この山地には冷水岳、尾太岳、青鹿岳などの一千メートル以上の高峰が圧倒するような重量感でつらなっている。谷川の流れが深くて渡れず、村市という処から丸太の刳舟(くりぶね)でのぼった。

高岸つたひ、真蒼なる淵のみあやうく見下して、森の淵とておそろしきところを、うすき氷をわたるここちに細路を行き河辺村過るほど、見し多門天の椙群(すぎむら)を河越に見やる。むかふ岸に滝のところどころおつるなど、めとどまれり。橋ほそくわたしたるを、馬の背といふ谷河なりといふ(同上)

このあたりは今では目屋貯水池として水没した処である。天明の大飢饉のころ滅びて、僅かに残った山村に宿を求めながら、暗門へむかったのはもう十一月に入った早朝だった。凍み氷った雪の上を行きなやみながら、光を遮って暗い森林を抜け、嶺を越えた。

雪に手をつき梢をふんでややのぼり、かつくだりては、さらに幽なるおく山になりて、岡市簿の沢といふにわけ下りぬ。此沢水と踏懸(ふかけ)の沢といふ山河をわたる。ふたせのあら河ながれあひて、落滝つ名を毛呂滝といひ、この水おちながれて際の沢にいれば、ことどころの人はもはら安門の滝とひたにいへれど、杣山賎らは、もろ滝といひ、あるは、あんもんのもろ滝とのみぞいふめる。かくて、この左のたか山の岸に生ひしげりたる小笹を握み、木々の根をちからに雪にふみ立て身をちぢめ、汗あゆるここちにからくして見くだせば、その高さや、いくそばくならんと、およそをはかれば、百尋もや過ぬらんかし。ただ水の、天より天にくだるおもひのみぞせりける。こや、ことさへぐからくにに、天の河の、中空より、ながれくだるかとうたがひたりしも、この滝には、たぐへつべうもあらじかし(同上)

暗門川の源流地に近い欝蒼とした原生林におおわれた深い山中である。滝は三段になってそれぞれ方向を変えて落下している。長さはおのおの七十・六十・五十メートルぐらいの爆布である。まことに真澄ならずとも神秘と豪壮さにうたれる。ふり仰ぐと空は厚い密林の峰のはるかな高さであり、濃い紺青色の滝は思わず背筋の硬くなるような轟音をあげて落下している。真澄の文章には、流し木といって伐採した樹木を一の滝から落とすと二の滝でせきとめられることがある、それを長い綱にすがって滝を降り、かき流す仕事にたずさわる者があるが、逞しい山男たちの中でも、その作業に従う勇気と体力のある男は、一人か二人にすぎない、とある。

杣夫たちの仮小屋を探し当てて、泊めてもらいたいと頼むと、杣夫や木樵たちの方が驚き呆れて、こんな深山へは夏でさえ人の来るのは稀なのに、冬空の雪をわけて毛呂滝を見にくるとは、と言いながら、盛んに焚火をしてこの風変りで大胆な旅人をもてなし、食事の菜には、〈なだれ〉蕗という霜にも雪にも枯れない山の蕗を入れた味噌汁を作ってくれたりした。

その仮小屋の夜更けに、突然山谷にひびき渡る雷鳴のような物音を真澄はきいた。何事かと愕くと、杣夫頭は、あれは滝鳴りと言って、雨か雪のくる前には今のように滝が鳴るのだと言い、こういう深山幽谷には、峰の頂、山々の奥、すべての川の源に神々が棲み、山川を汚す者は神々の怒りに触れる。だから山で働き滝の上に住む自分たちは神を畏れて身を慎むのだと語った。真澄は眠れぬままにほだ火をたきながら猿の叫び声を夜明けまで聞いた。

次の日から滝鳴りの前触れどおり雪が降りこめてきた。一日遅れればさらに積雪は深くなるばかりなので、案内人を頼りに嶮路をたどりたどって、かろうじて山里のある処まで下山することができた。それを合図のように天地を埋めつくすばかりの豪雪が降りはじめた。彼は岩木山麓を東側へ出て、鰺が沢を通り深浦へ帰った。

この西目屋の山村も昭和三十四年にダムが建設されて村の生活も自然も変貌した。砂子瀬付近の渓谷は水没して今は美山湖という。
正月の田植え

四 津軽藩採薬御用

寛政九年(一七九七)の元旦から始まる日記は『都介路逎遠地(つがろのおち)』という。深浦で真澄は新年を迎えた。活気のある港町の正月風俗がおもしろく書かれてある。港に停泊して越年した遠国の船舶の乗りぞめの祝いなどは珍しい。やがて春の雪解けを平穏に迎えて行くような日がしばらく続いている。

しかし三月ごろから、とくに四月の後半は日記が空白になっている部分がある。これは彼が後年改装したものだそうだが、何らかの理由で削除した部分だと推定されている。これは真澄研究家の内田武志氏の説に拠るものであるが、この四月の後半に、彼は青森の平内方面へ出かけたらしい。かつて行った夏泊半島の椿崎を再度みておきたい気持で、その花の最盛期に当たる時をのがさず行ったことは充分考えられる。それは、彼には津軽を去って故郷へ帰る意志が動いていたためだと思われる。夏泊半島の椿に美しい印象をうけた彼は、北国を去る前にもう一度みに行き、その帰途、館之越の医師山崎顕貞を訪ね、津軽を離れる挨拶をしたらしい。顕貞以外の人にも会ったかも知れない。しかしこのことが、後に真澄の上に起きた津軽藩での出来事と、何らかの関連があり、そのために日記のこの部分を削除したらしいのだった。

    

この小旅行を終えて深浦へ帰った真澄は、竹越里圭たち名残りを惜しむ人々から、もう一日、もう一日と引きとめられていたが、五月七日に深浦を立ち去った。前年の秋から親しんだ土地と人々に別れる哀しみが日記からもうかがえる。深浦だけでなく、彼はある土地とそこの人々と別れて次の旅程にふみ出すとき、常に後ろ髪ひかれる思いで別離にたゆたっている。人が読む日記だということもあろうが、彼の多感な性情からである。

それと彼はある土地と人々に別れる時、故郷へ帰ると言って立ち去っている場合が多い。ほんとうに帰郷の意志があってのことか、その意志はないが旅人としての常識的な別離の挨拶なのか、どちらとも判断できないことが多い。しかしこの寛政九年の初夏の場合は帰郷をほば決定的に考えていたようだった。

彼は深浦から鰺が沢へ出て、岩木山麓の東側をまわり、百沢に住む知人の斎藤規房を訪ねた。規房の父は弘前藩士だったが浪人となったために、このころは寺子屋などを開いて生活していた。神道・国学を修めた人で、真澄とは寛政七年来の交友だった。この人の『規房日記』の抜萃が『菅江真澄遊覧記』(東洋文庫版)に掲載されているので、それを摘要すると、「秀雄本国へ帰郷の由にて尋ね来り、終日咄し合ふ。伜へ着物着せ候様にとて金壱歩、妻に呉候、秀雄に何ももてなし無之、救聞寺にて無心、うどん少々芋三勺、焼とうふ一丁借用、ようやく振舞申候」秀雄は真澄の本名であることは前に触れた。寺子屋師匠では客をもてなす余裕もなく、貧しさを見かねた真澄は子供に着物でも、といって規房の妻に壱歩銀を贈ったのだった。真澄の路銀が豊かだったとは思えないが、二人の真情のあふれた記事である。この『規房日記』にも書いてあるが、真澄は弘前へ出てから故郷へ帰るつもりだと話している。

百沢を出立してから、真澄は前年の冬、暗門の滝へ登った道を相馬村小倉の神明社まで行った。深雪に阻まれて見ることのできなかった途中の神社や風景を見るためだった。雪の中で見た世の中滝も、今は青葉の中に落ち、たぎり流れる谷川の瀬には蛙が鳴き、崖には藤の紫の波がゆれていた五月十七日、彼は弘前城下へ着き、知人の許に宿をとった。彼の考えていた帰郷の道筋は、ここから青森へ出て、南部領を通るつもりだったらしい。しかし弘前へ着いた翌日、彼は藩医小山内玄貞に案内されて城下のそこかしこを見物してから外瀬(とのせ)村にある藩の薬草園へ玄貞と同道して行った。
さいとりかばたく

この日、薬草園の茶亭には津軽藩の上級藩医、藩校稽古館の医学御用掛という人々が集まっており、真澄はそこへ出席した。あらかじめそういう手筈になっていたのであろう。この出席者の中には山崎顕貞の子、永貞も同席していた。藩側の人々は五名で、真澄にとっては玄貞、永貞以外は初対面の人々だったろうと思われる。この会合は夜更け近くまで続いた。何が話し合われたかは真澄の日記には書かれていないが、話し合いの目的は次のようなものであることは確かだった。

津軽藩ではこの三年以前に、他領で製造された薬種売薬の藩内での使用を禁止した。薬種は領内で採集製造したものを使用するよう法令としてうち出していた。従って藩医、医学御用掛という人人は、薬草の採集、栽培などを充実する必要に迫られていた。しかしこの頃の藩の薬草採集技術や知識は初歩的なものであって、真澄ほど広く山野を歩いた者はいなかった。小山内玄貞は薬園御用掛表医だったから、真澄の博識と経験に注目して、その力を借りたいと考えたのだった。

しかし津軽藩当局が採薬掛として真澄のような他国から旅してきた人間を一時的にでも起用するというのは前例にないことだったから、玄貞は上級藩医たちと真澄の面接の機会を作り、上層部への働きかけを円滑に推めたいと考えたのだろう。この玄貞に対して真澄を推薦紹介したのは山崎顕貞父子だったことは確かであろう。

真澄がこの会合の席でどういう返事をしたかは、この時の日記には書いていない。後に書いた文章によってみると、真澄は玄貞、永貞の切望と熱心なすすめに断り切れなくなって承諾したとあり、この五月中には採薬に同行することになり、出発の日もほぼ決めたようだった。

しかし藩当局の許可に手間どったのか、真澄が健康を害して十数日、病臥したという記事もあって、彼が採薬に同行したのは六月下旬だった。しかしこのあたりからは日記は完全な形ではまとめられていない。断片が残っているだけである。これは後に起きた問題と関連しているためと考えられる。

津軽藩側の記録によると、六月十五日付で、小山内玄貞が真澄を同行して採薬に出立することを許可し、真澄には饒別という名目で藩から金千匹の手当を支給するとしてある。当座の採薬掛として認めるということである。饒別という意味は、この採薬行の終り次第、真澄は南部領を通って帰国すると言っていたので、そういう名目を立てたのである。

第一回の採薬行は、この年の夏から秋へかけて、南津軽の阿遮羅山付近から始まり、かなり広い範囲の山野をわけて行なわれたらしい。小山内玄貞と山崎永貞が同行している。最終地は青森の浅虫付近で、十月半ば頃だったようだ。もう冬に向かう季節なので採薬は一応打ち切りとし、真澄は玄貞から金千匹の謝礼をうけとった。しかし、そのまま平内(青森県)付近にとどまった。

この寛政九年の夏から秋へかけての日記は実際には書かれていたらしい。しかし失われてしまった上に題名も伝わっていない。この時の日記は、彼の特技と言ってもいい本草学や薬用植物の知識と、旅の経験を生かしたものであろうから、充実したものだったにちがいない。しかし、後に述べるような出来事のために、日記は没収されたらしい。題名すら伝わっていないのは、真澄自身が、それについて語ることを憚ったからであろう。
えぶりすりの装具

    

寛政十年の新年は平内付近の童子村で迎えた。この周辺の地域は真澄が下北の田名部から移って以来、度々きた処らしいことからみて親しい知人たちがいたようである。それに彼は採薬行でうけた手当で路銀がうるおったことにほっとした思いだった。依嘱された仕事を無事に終えた爽やかさもあったにちがいない。この童子村の新年の日記はまことに明るく精彩に富んだ秀作である。珍しい正月行事も生き生きと躍動する感覚で捉えられているが、中でも男の扮装をした女の舞う杓子舞の言葉が面白い。鼓をうちならし三弦も賑やかにかきならして

さくし舞はみさひな。奥山のやまなかの、金平どのの弟の、金四郎といふ人は、さくしうちの名人で、さくしうちの道具には、一分のみに二分のみ、前かんなにしりかんな、番匠箱(ばんじようばこ)に引入て、ひきからかってひっちょって、一の坂もせこせこ、二の坂もせこせこ、三の坂の坂中で、あんまり腰もいたひし、こしをちくと休めて、あたりをきっと見たれば、さくし木が沢山で、さくし木のあらために、一にとっては〈いたや〉の木、二にとっては〈にが〉木、三にとりては桜の木、四にとりては〈しころ〉の木、五にとりては五葉の松、六ツにとりては〈むく〉の木、七ツにとりては〈なら〉の木、八ツにとりては山桑、〈やす〉の木とも申すなり。九ツにとれば金剛の木に、〈こも〉の木、十にとれば〈とち〉の木、ことをかいたる柿の木の風折れ、さくし木の上ものだ。本をばとんとなをして、うらをばさっくとはやして、七日八日かかって、さくし三ちゃううつぱたいて、ひっからがってひっしょって、おく山の山口で、山もりに行き逢て、さくし一ちゃうとられて、さくし舞は見さひな(追柯呂能通度、つがろのつと)

さくし売りが市へ出て買手に値ぎられる滑稽な狂言仕立ての言葉がまだ続く。いかにも溌溂とした野趣があふれている。それはまた村人と打ち興じている真澄の快活さを想像させて、思わず微笑を誘い出される。ただ惜しいことに、この日記は元旦から二十日までの短篇、というより断葉で、これに続く部分があったと思われるのに、前年六月以降の日記がないのと同様に、ぷつんと切れたままである。

しかしこの時期につづく日記の草稿があって、第二回目の採薬行の跡をたどることができる。三月の半ば頃、平内にいる真澄を山崎永貞が訪ねてきたことから始まる。

永貞は藩からの使者として、この春も採薬をするようにという上層部からの意向を伝えた。前に同行した小山内玄貞は、津軽藩が蝦夷地警備の命令をうけて藩兵を松前へ出動させたために付添い医師として渡島していた。そうした移動のために表医師が手不足になったので、第二回目の採薬行は山崎永貞だけが同行することになった。これは真澄にとってはかえって自由さが感じられたのだろう、彼は求められるままに急いで弘前城下へ出た。

五月中旬、真澄は永貞を伴って中津軽郡の岩木川渓谷から始まって、西津軽郡の山野を薬狩りしながら、夏から初秋の頃には津軽半島の西海岸から東の陸奥湾岸へ越え、半島の北端の竜飛岬をまわって採薬の旅をつづけた。

この期間の日記は草稿のままであったり断片として、ばらばらに合冊されたようなものになっている。そのうち『外浜奇勝』という草稿を綴り合わせたものの中に、この薬狩りの時期の草稿が、ややまとまった形を残しているが、充実感のある優れた記録である。題名は後にこの草稿を手に入れた人のつけた仮題である。その中の白神山地の尾太(おつぷ)鉱山へ登った個処を現代語訳で引いてみよう。

どよみ流れる荒川の高い岸からななめに落ちかかっている桟橋の下方に立って、ふりあおいで見ると、高いしら雲の上に虹がわたっているかのように、高山の末の岩の間ごとに柱をつき立てて桟橋を造り、家屋もびっしりと建ちならんでいた。その家はみな朽ちてほろびてしまい、いまは桟橋ばかりが残っている。むかし、この岩山のしき(鉱坑)のなかに、たいそうよい鉱石が掘り出された。世に言われている宝字(天平)のしろかねも、このような山からでて宝となったのであろう。この山には神がまつられ、尾太権現といっている。年を経た猿をあがめているというから、尾の太い猿がすんでいたのであろうか。路を川についてのぼると、大床、小床、素吹の床など、たたらぶき、箔からみをした建物もすっかり倒壊し、屋根をふいた板も柱も朽ちて折れ、塵芥塚のようにうずたかくつもっていた。川辺に白堊があり、岩根に花蕋(しべ)石もごくまれに拾うことがある。(略)白銀を掘った後は近年まで銅を掘っていた山なので、このように道の跡かたばかりは残っているのであろう("外浜奇勝国"東洋文庫版現代語訳より)

彼に本草学の知識があって鉱石類に興味があり、みちのくの鉱山に関心を持っていたことは前にも触れた。ここだけでなく柴倉山の廃坑跡や、鉱脈の露頭があって鉄分を含む岩石が転がっている谷や沢などがあれば見落とさず注目して記録している。また山男たちも畏れて行きたがらない深山へ登って地理地勢を詳細に確かめて、それも記録している。それだけでなく名もない農民や山働きの男たちに接近しては、彼らの話をこまかく聞き出して書きとめて行く。そうした彼の関心の持ち方と執着とも見える熱心な態度などが、後に津軽藩当局者から疑惑の目をもって見られる原因になった。日記が完全な形を残さなくなったのはそのためである。

津軽藩と限らず藩幕体制の中では、領内の鉱山の内容や物産関係の実態、地理に関する調査などは藩の秘密事項だった。他藩とのかかわりや幕府に対する自衛上の必要からも取締りは厳重だった。真澄にとっては学究的な純粋な好奇心以外に何もない行動であっても、彼が寺社や古蹟めぐりをして歩く旅の歌詠み、信仰巡礼者として見られていた限りでは見のがされていた。しかし能力を認められて、藩の依嘱をうけた採薬掛となった時では、同じ行動でも藩役人の警戒心を刺戟する原因になったのだった。ことに彼は三河生まれという以外に、前歴や身分を明らかにしていない。

しかしこのことが表面化したのは翌寛政十一年(一七九九)の後半のことだった。真澄は自分がどういう目でみられているかなどは予想もしていなかっただろう。津軽半島を一巡して第二回目の採薬行を無事に終了した。八月十五夜の名月を十三湖で鑑賞している。

    

寛政十一年の新年は、藤崎、弘前で迎えた。"父母(ちちはは)のみたまもこよひ在(います)かと尚おもひやるふるさとの空"真澄四十六歳の元旦だった。この正月の日記も僅かな断章であり、二月に五所川原の知人を訪ねた部分が少しついているだけであって、前後の欠落した断片を綴じ合わせたにすぎない形のものである。このように津軽での日記には、書いた当時のままの完全な形で残った紀行がない。書いたと推測されるものは失われている。そしてこの二月以降には全く日記がなく、彼の所在や行動は資料によって明らかにすることはできない。

この四月、藩庁側の記録には、真澄の採薬御用を免ずることと、これまで二回に亘る勤めに対する賞として金五百匹をつかわすこと、また南部を経て帰国するということなので、路用として金五両を下しおく、となっている。

これで真澄の採薬掛としての任は解かれたわけであり、いつでも南部路から帰国していいことになったのだった。これだけの根拠では断定的なことは言えないが、前年秋に採薬の一応終った段階で解任したのではないところからみて、第三回目の採薬も計画されていたのかも知れな。そうでないとすると、故郷へ帰るという者を四月まで待たせておいたことになる。もっとも、役人の措置はそうしたものだとも思うが、何か表面には現われない経緯があったのかも知れない。
正月の雪景色

ともかくこの四月以降、真澄がどうしていたのかは不明であって、帰国の意志が変わらないとすれば、弘前で藩庁から金員をうけとり、青森の方向へ出てから南部路へ入るか、または弘前から南へ下って矢立峠越えで南部領へ入るかした筈である。もっとも帰国するといっても十日二十日を急がねばならない境涯ではないから、立ち寄りたい処や興味を惹かれる処があれば自由に変更してもさしつかえないわけである。しかし取締役人からみれば、不審な行動にみえたであろう。

果して、この年の秋ごろから、弘前で秘かに語られた風説があった。それは真澄に対して藩庁から呼び出しがあって、所持の日記類を全部提出させ、取調べが行なわれた結果、その日記類の内容が藩当局の忌憚に触れたため、領外へ持ち去ることを禁じた、すなわち没収した、という噂で、これは当時の津軽ではかなり広く知られた風説だった。このことは、藩側の記録にもなく、真澄も沈黙を守って終生このことについては語らなかったので、確証はないが、事実と考えてまちがいはないようである。

提出した日記のうち何冊かは没収され、他は部分的に抜き取られて、もとの形ではなくなった。そして、再び真澄の手許に返された分量は、提出した時の半分以下のものでしかなかったろうと推定されている。


公的な記録に残るような取調べではないが、真澄に対する尋問も行なわれたであろう。また彼を弁護する人々の動きもあったと思う。日記の没収、部分的削除で問題が終ったのは、藩役人の真澄自身に対する疑惑は解けたものとみられる。厳罰主義の時代とすれば領外退去を命じられることぐらいあり得るわけで、役人の解釈次第ではそういう処置にもなりかねなかったと思う。おそらく威圧的な誡告はなされただろう。見方によればその程度で事が済んだのだけれども、真澄にとっては旅のすべてを賭けて書きあげ、愛着した日記を没収され、ばらばらにして抜き去られたということは、最大の処罰以上の打撃だったにちがいない。

この時から翌寛政十二年(一八○○)、さらに次の享和元年(一八〇一)の秋頃まで、ほぼ二年間を真澄がどういう生活をどこで送ったのか、資料がないために分らない。おそらく弘前から外へ出なかったらしい。藩庁の疑惑は一応解けたとしても、旅は遠慮しなければならなかったであろう。ふとした言動の端にも注意深く自重し、謹慎を旨とした生活をしたと考えられる。

この期間の彼の動静について、次のような考証がなされているので紹介しておく。寛政十二年の四月半ば頃に、弘前在住の俳諧の連衆が、江戸から来遊した俳諧師を囲んで運座を持った。その時の百句集『百韻翁草』(青森県立図書館蔵)という冊子があり、その序文の筆跡が真澄だという(小笠原二郎氏)。

むろん署名はなく、三河の低馬(ひくま)、としてあるそうだ。低馬は真澄の仮の俳号であろう。彼が俳諧の連衆と接近したことは充分うなずけるものがある。過去にも俳人との交わりがあり、俳諧を贈られると即吟で付句をしている記事が度々みられる。即詠即吟の才は彼の特長の一つであって珍しくはないが、なかなか切れ味のいい和句をしている。私の好みからいうと彼の和歌よりも俳諧の方がいい。主観性のつよい和歌に比べて、より短詩形の俳諧は冗長さがないためであろう。江戸時代のこの頃には俳諧は広く民衆文芸として庶民の間に浸透していた。「高く心を悟りて俗に帰る」という俳諧の「軽み」は、町人的、現実的な精神の生かされた文芸だった。

真澄の逼塞を余儀なくされた状況の中では、いかに彼がしんの強い精神の持主でも、屈折と憂悶の日々がつづいたことは想像を超えるものだったとおもう。武士とそれに従属する階層の裏面も見せられたにちがいない。そうした彼が俳諧的世界と町人層に接近して行ったことは自然だったといえよう。

ようやく弘前を去る日がきた。享和元年の八月半ば、弘前を出立して鰺が沢へむかうところから書きはじめた日記は、簡略で言葉すくないが、空白の二年を経て、日記が書き出された時だった。「ふしなれし屋戸のあるじ中井なにがし」の家で送別の集まりがあった。この中井某は以前にも弘前にくるたびに宿をとった家だった。「けふなんここを立たばやと、こころつようおもひさだめて」宿の主人、俳人らしい人々に見送られている。旧知の人では斎藤規房が見送りに駆けつけた様子できている。その人々に残した彼の歌は"袖のつゆおくのつがろのみちのくをけふわけ捨て皈(かえ)る身ぞうき"この日が彼の弘前での最後の日だった。
とし縄、食器具、牒面

    

真澄の日記没収事件について、真澄研究家の考証と推論が東洋文庫版の解説にあるので紹介しておく。それぞれ興味ふかいものである。

真澄は寛政十年秋の第二回目の採薬御用を終えたのち、翌年にかけて『岩木山物語』『善知鳥(うとう)物語』『浪岡物語』という三篇の書物を書いた。この三冊も行方が分らなくなったが、この書物が何らかの契機になって、日記の検閲にまで拡大される結果になった。このうち『浪岡物語』というのは、館之越の山崎顕貞、永貞の家の歴史に関する物語であるらしい。山崎家の先祖は浪岡城主だった北畠氏時代に、津軽初代藩主となった大浦為信に攻められて一族は四散した。その子孫は津軽家を揮って山崎姓に改姓していたくらいだった。そういう家系について書かれた書物が行方不明になったのは当然である(中道等氏)。

真澄は採薬御用掛を解任されたのち、青森の野内のあたりを中心にして生活した。おそらく八甲田山へ登り、何度も往復したり歩きまわって日記『小田の山もと』を書いたのではないか。しかし藩の役人からみれば、帰国すると言いながら出て行かずに俳徊するのは不審だ、南部藩との境界の間道などを調べているのではないか、日記を残らず押収して取り調べる必要がある、という藩役人の意見が強く起こった、と考えられる。この『小田の山もと』も行方不明になった(内田武志氏)。